text連載「落ち穂」

2021.02.17 『大きな循環』

ことの発端は制作場所が無くなったことだった。子どもを産んで自宅兼アトリエは専ら子育ての場へと変化。小さい子どものお世話に明け暮れる日は、それは充実した日々であったが妙な制作意欲が湧いてくるから不思議だ。極端に言うと自分というものを一番最後にしないと物事が回らない中、自己の喜びー私がただ単純に心からわくわくしている時間ーを欲しているのだろう。

結局産後はじめの制作場所はお風呂場の前の通路だった。小さなトビラがあるので何となく仕切られたスペースが出来る。鶴の恩返しではないけれど、このトビラは開けないでという気持ちである。未だに自分のスペースというものを必要としている私だが、その場所は随分変化した。

日々のごちゃごちゃのなかでも出来ることもあるし、出来なくてもこれもよしと自分に言い聞かせることで気持ちをつなげている。子どもと一緒に過ごす時、私が絵の具を広げだすと「わたしも描く!」となるのが子どもの定番である。その時は画面がまだ描き始めの状態であれば一緒に描く。描き進んでいる絵のときは新しいパネルを出して来てそちらに描くようにしている。子どもが描いた部分に応えるように私も色を塗る。色でお話をしているようである。そんなことをしていると子どもは満足して違うことをしたくなる。

世の子どもを持つ母親で制作したい人はどうやっているのだろうと興味が湧き夜な夜なネットで探してみるとMother Artistというワードに当たった。子どもをおぶって素材の採集に行ったりしている姿を見て心が沸き立った。生活のあらゆる刹那の中に居ながらも自分の欲求を肯定しているように思えた。生きていく中で起こる変化は人それぞれあるだろう。その機会のなかで可能性を探ること、失敗してもいいから楽観的に取り組むことは何かしらの一歩になる。私たちはどんなかたちでも表現し変化のなか生まれるものを迎え入れながら進化しているのだろうと思う。

提供:琉球新報