STATEMENT作品について

些細な日常の中でも変化を感じる毎日であり、様々なところで目まぐるしい変化が起こる昨今、その多様性の中、人々は何に心の休息を求め、日々の糧として生活しているのか。世界が多様になっているからこそ相手のことを理解する、征服するのではなく共生するという姿勢が重要になっていることは、常に大切にしなければならない側面であろう。人は一人一人違い、それぞれが生きている。相手を理解できない、理解したいというもどかしさは日常のあらゆるところにも潜んでいる。それを乗り越えそれぞれがコミュニケーションをとりながら人生を進んでいるとも言えるだろう。私たちはそれぞれが各々の人生を生きている。そう考えた時、人は相手を許し、自分の生に向かっていけるのではないだろうか。個々が自分の世界観に向き合う大切さはいつの世も提示されてきた。時代の大きなうねりの中、先端技術の進歩、大気汚染、気候変動。人々の意識はどのように変容していっているのか。様々な媒体で人々や生物が表現したもので世界は溢れ、私たちはそれをポロポロと拾いながら組み立てているようだ。何ひとつ確実なものはなく私たちはそれぞれの視点でそれを寄せ集める。そしてわたしも常々自分の眼差しについて問答しながら日々を過ごしている一人である。

絵を描くようになり、言葉に表せないもの、その余白、奥行きに目を向けるようになった。感じている物には形はなく、こういう感じというものがあるだけである。しかし確かに「ある」と言えるだろう。絵の世界は、いわゆる絵空事、幻想ではなく、感じているその人の中にある。物質として目には見えなくとも感覚として存在しているのだ。色と形を伴い平面としてこの世に生まれることが絵画として作品化するということであると考えるが、絵画はまた、平面という時間の概念が無いものに、絵具と支持体という物質を得ることによって物化する。個人の瞑想の世界が物質としてこの世に存在すると言ったらいいだろうか。そして量子力学的には事物には全て見えないほど繊細な振動がありその振動を発しながらそれぞれは影響し合っているという。世界のすべてのものが関連し、共鳴し合いながら息づいている。この世界において、日々の生活の中から様々なものを感じ、考えながら人々は生き、ある時は死の場面にも出会う。

鑑賞者がそれぞれの想いを巡らす場所としての絵画。そして自分に向き合う場としてある絵画を念頭に置き制作を続けている。それは私にとって自身が「個人」というものについて推考する過程で必要となった表現活動の一つであり、同時に作品を鑑賞者に提示することによって起こる作品の無名化、つまり私という個人の世界を見せているということではなく鑑賞者自身の世界がそこに立ち現れるということに深い興味を抱いたからだ。共通認識が生まれる。それは無意識の領域での共通理解ではないかと思う。そしてその解釈や言語表現は人それぞれが違っており、その幅があることこそが私たちのいる世界の豊かさを生んでいると思うのだ。

私の制作は、できるだけ無意識を心がけながら色を選び、
時には目を閉じたり体をできるだけ自由に動かしながら
体内に流れる音楽やリズムに沿って筆を動かす。

その行為によって支持体に現れた空間に、
私が自然や人とのふれあいの中で感じた「素」のようなものと
共通したものを見つけ、それをきっかけに絵画として形作っていく。

私という概念的意識が判断している世界は狭く、
本来世界は様々なエネルギーに満ち溢れ循環している。

その取り巻く環境に耳を傾け、見つめ、携える。
それは本来人が体の中に取り込み、

生きていくうえで大切な糧であったのではないか。
またそれを感受する心の領域は個々人の聖域であろう。
絵画という平らで時間の制限の無いものは無限の空間であり、

また色という光によって生まれたものを用いることで、
心の無意識の状態にまで光をあてる。

私はできるだけそのものが無理なく形作ることに集中し、
私が見つめる様々な事物の素となるものを作品を通して鑑賞者と共有したい。

齋 悠記